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2007 年 プロ 野球 順位

2020年プロ野球cs(クライマックスシリーズ)の日程と開催方式. 2007年セ・リーグ ペナントレース成績: 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年パ・リーグ ペナントレース成績: 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年プロ野球年俸総額ランキング(選手会版) 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年日本シリーズ成績 プロ野球のデータが満載! ... 、他のサイトでは見られないユニークなデータを掲載しています. プロ野球のデータが満載! ... 、他のサイトでは見られないユニークなデータを掲載しています. トップ; セ・リーグ; パ・リーグ; 個人成績; セ・リーグ. 2007年セ・リーグ ペナントレース成績: 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年パ・リーグ ペナントレース成績: 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年プロ野球年俸総額ランキング(選手会版) 2015/03/31: 編集メンバー1号: 2007年日本シリーズ成績 【2020年プロ野球】順位予想と優勝の可能性・戦力分析まとめ【中日ドラゴンズ編】 2020年2月17日 2000年代に「オレ竜」で黄金時代を迎えたドラゴンズも、世代交代が上手くいかず平成時代から令和へ … 2007年プロ野球順位予想 さあ、今年もこの季節がやって参りました 昨年最下位もありえるなどと書いてしまった日本ハムが優勝した2006年、さてさて今年はどんな結末を迎えるのでありましょうかねぇ 2007年プロ野球順位予想 さあ、今年もこの季節がやって参りました 昨年最下位もありえるなどと書いてしまった日本ハムが優勝した2006年、さてさて今年はどんな結末を迎えるのでありましょうかねぇ 2 千葉ロッテマリーンズ 76 61 7 .555 144. 中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、英語: Chunichi Dragons)は、日本のプロ野球球団。愛称は「ドラゴンズ」「中日」 日本プロ野球 ... 1950年以降の順位の変遷。 ... ※2007年から採用されたクライマックスシリーズでは2012年まで6年連続でファイナル(2nd)ステージ進出を果たしていた。 日本一・2回(1954年、2007年… ョップ, 一般社団法人日本野球機構について. 順位 チーム 勝利 敗北 引分 勝率 試合数 ゲーム差; 1 阪神タイガース 87 54 5.617 146; 2 中日ドラゴンズ 79 66 1.545 146; 3 横浜ベイスターズ 69 70 7.496 146; 4 ヤクルトスワローズ 71 73 2.493 146; 5 読売ジャイアンツ … プロ野球のデータが満載! ... 、他のサイトでは見られないユニークなデータを掲載しています. 4 東北楽天ゴールデンイーグルス 67 75 2 .472 144. プロ野球 貯金グラフは ... 【2008】 【2009】 【2010】 【 mixiアプリ版、プロ野球貯金&順位変動グラフβ 公開中!! 日本プロ野球 2005年 順位. 6 オリックス・バファローズ 62 77 5 .446 144. 過去のデータ - 2010年. 村上ファンドの阪神電鉄株保有・議決権取得・高値で売却できず逆切れ、に基づく阪神タイガースへの干渉の一切に対して怒りをもって反対を宣言します。 伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える[5]。伊奈努、児玉泰、大矢根博臣ら若くて威勢のいい投手陣に、野手は捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した[6]。この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位[注 5]。, 2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。投手陣が崩れ[6]、優勝した大洋と9ゲーム差の5位。杉下監督は退任し、大毎に移籍した。, 濃人渉が監督に就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが2位。, 日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが3位。, 優勝した巨人と2.5ゲーム差の2位。全球団に勝ち越しながら優勝を逃したのはセ・リーグ初。, 開幕カードとなった大洋3連戦で30失点したのが響き、3月の9試合を2勝7敗と開幕ダッシュに失敗。以降も立ち直れず、1948年以来2度目となる球団ワーストタイ記録の83敗を記録し[2]、2リーグ分立後初めてとなる最下位に終わる。なお、同シーズン途中からは西沢道夫が監督を務めた。, 西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢が監督を途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰)。, キャンプイン直前に西沢監督が十二指腸潰瘍の悪化により辞任、杉下茂が監督に復活。4月20日から5月1日まで9連勝するが翌日から8連敗を喫するなどチーム状態が安定せず。5月16日、ノースリーブユニフォームが登場した阪神戦で連敗が止まるが、5月29日から11連敗。6月12日に止まったものの翌日から連敗。3回目の7連敗となった6月24日に杉下監督が解任。本多逸郎二軍コーチが監督代行となるものの8月24日から再び11連敗を喫するなど立ち直る気配が見られず、2リーグ分立以降初めて同一リーグの全球団に負け越しての最下位となる。オフに元巨人・東映監督の水原茂が監督に就任。ドラフトでは1位で星野仙一、3位で大島康徳、6位で竹田和史、9位で島谷金二と、後に1974年の優勝に主力として活躍する選手を獲得。, 1969年から元巨人の水原茂が監督就任するが4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝につながっていく。, 中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。, 1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。与那嶺監督、近藤貞雄ヘッドコーチともに巨人から中日に放出された経験があるため、巨人に対しては闘志をむき出しにし、2年連続で勝ち越してV9巨人を苦しめた。, 髙木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して20年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした。しかし日本シリーズではロッテオリオンズに2勝4敗で敗退。, 巨人(同年は球団史上唯一の最下位に沈んだ)以外の5球団が入れ替り立ち替りで首位に立つ「5強1弱」のペナントレースで広島と最後まで優勝を争ったものの、「赤ヘル旋風」の前に2位で終わり連覇を逃す。, 後楽園球場の人工芝に全く馴染めず、後楽園での対巨人戦に全敗したのが響いて4位、Bクラス転落[注 6]。シーズン終了後、近藤貞雄ヘッドコーチが辞任。, 阪急との大型トレードが歴史的な失敗に終わり(放出した島谷が打率.278→.325、稲葉が3勝→17勝、獲得した森本が出場120試合→49試合、戸田が12勝→6勝)、何とか5割3位は確保したものの、与那嶺監督はこの年限りで退団する。, 中利夫が監督になる。髙木が2000本安打を達成するも、その直後に相手選手と衝突して離脱、谷沢がアキレス腱痛で長期離脱し、大島も死球で左手小指を骨折するなど主力野手に怪我人が続出した。初年度は5位。, 大島が打率.317、36本塁打、103打点と活躍し、髙木も打率3割を打ち、投手陣も2年目の小松辰雄がリリーフに定着、3位とAクラス入りを果たす。アキレス腱痛で長期離脱していた谷沢がシーズン終盤に復帰。藤沢公也が新人王に輝く。, 谷沢が打率.369を記録し、カムバック賞を受賞するも、前年度新人王に輝いた藤沢が大不振に陥るなど、投打共に振るわず、球団ワーストとなる開幕6連敗を記録するなど12年ぶりの最下位に沈んだ。同年は1950年以降で球団史上最低勝率(.372)を記録し[2]、中監督は同年限りで辞任。この年、髙木守道が現役引退。, 星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝達成。2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。最終成績は64勝47敗19分け(130試合)だが、全試合の半分に満たない勝利数で優勝したのは1975年の阪急ブレーブスに次いで2チーム目である[注 7]。また、この試合で田尾安志が大洋から5打席連続敬遠を受け、首位打者を逃した。中尾孝義がMVPを獲得した。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一、木俣達彦が引退。, 球団創設半世紀となったこの年は谷沢が球団史上2人目の通算2000本安打を達成したものの、5位に終わった。, 2年連続5位。山内はシーズン途中で解任[7]。開幕から監督を務めていた山内のシーズン途中での解任を受けて、シーズン終了まで髙木守道ヘッドコーチが監督を代行した。オフに星野仙一が監督に就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテオリオンズから2年連続三冠王の落合博満を獲得[注 8]。享栄高校から近藤真一がドラフト1位で入団。, ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。広島には10年ぶりに勝ち越した。シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。, 4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。しかし翌日以降巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率.769で10月7日に逆転で6年ぶり4度目の優勝。生え抜き監督での優勝は球団史上初。平野謙との交換トレードで西武から移籍した小野和幸が最多勝で、小松と共に先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVP。立浪が新人王に輝いた。日本シリーズでは西武と対戦、第1戦・第5戦先発した小野を筆頭に第2戦の小松以外の先発投手が打ち込まれ、落合、宇野の不振もあり[8]、1勝4敗と敗退[注 9]。, 1989年は3位、優勝した巨人に5年ぶりに勝ち越し、中尾孝義との交換トレードで巨人から移籍した西本聖が20勝で最多勝。1990年は4位とBクラスに沈むも、1991年は優勝した広島と3ゲーム差の2位。同年オフ、星野仙一は健康上の理由で監督を退陣。オフに髙木守道が監督に就任。, この年のセ・リーグはまれに見る混戦だったが、成績は60勝70敗で12年ぶりの最下位。この年、中日を扱ったアメリカ映画『ミスター・ベースボール(Mr.Baseball)』(トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)が公開されている。シーズン終了後、西本聖が戦力外通達、自由契約。, 今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが共に17勝で最多勝、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルも獲得。しかし、前半戦で2位以下に大差をつけて独走したヤクルトが優勝、中日は2位に終わる。シーズン終了後、落合が巨人にFA移籍。, シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる髙木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝などで首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合は3対6で敗戦し2位に終わった。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率のタイトルを獲得。髙木監督も契約延長となった。シーズンオフにFAで金村義明が入団(中日では初のFA入団)。, チームは前年から一転不振に陥り、6月2日の対阪神戦の試合前に髙木守道が監督を辞任[注 10]。その後徳武定祐が監督代行となるも、7月23日には解任され、二軍監督の島野育夫が監督代行となった。こうして監督人事が迷走したことも響き、この年は5位に終わり、9月20日に星野仙一の二度目の監督就任が発表された。12月には韓国プロ野球のヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得[9]。パウエルが2年連続の首位打者に輝いた。, この年はナゴヤ球場最終シーズンとなった。韓国の至宝といわれた宣銅烈が抑えとして期待されるも、日本の野球に馴染めず不振に終わる。8月11日の対巨人戦で野口茂樹がノーヒットノーランを達成[11]。この年は長嶋巨人による「メークドラマ」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。10月6日、ナゴヤ球場での最後の公式戦を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフという状況で、3試合目に2対5で敗戦で2位に終わるが、阪神には5年ぶりに勝ち越した。この年は大豊泰昭、本塁打王になった山崎武司、3年連続で首位打者になったパウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜打線”の愛称も一層の定着を見せた。, ナゴヤドームに本拠地を移し、狭いナゴヤ球場から一転して広くなったナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、前年の強竜打線も沈黙、チーム防御率は11位と低迷、5年ぶりの最下位に終わる。不振の野手陣の中で、新外国人のレオ・ゴメスが打率.315、31本塁打と唯一気を吐き、宣銅烈が不振だった前年から一転、38セーブを挙げ、山本昌が3年ぶり3度目の最多勝を獲得。オフには守備力と機動力を確保するため、パウエルを解雇し、韓国ヘテから李鍾範を獲得。阪神との交換トレードで矢野輝弘と大豊泰昭を放出し、関川浩一と久慈照嘉を獲得した。この年のドラフトでは川上憲伸を1位、井端弘和を5位指名した。星野が投手コーチに宮田征典を招聘した[12]。, 前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向した落合英二が最優秀中継ぎ投手、ルーキー川上憲伸が新人王を獲得しチーム防御率12球団1位となった。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。, 開幕から11連勝。投手陣は、野口茂樹や川上憲伸、山本昌にダイエーからFA移籍してきた武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らと共に不動のセットアッパーとなる。抑えの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。巨人との優勝争いの最中、この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝し、9月30日の神宮球場での対ヤクルト戦で、11年ぶり5度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは中日圧倒的有利とされていたが[13]、レギュラーシーズンで前年ほど活躍できなかった川上憲伸が第2戦で勝利するものの、野口は2戦2敗、関川が21打数2安打、福留が3戦から5戦まで3試合連続失策、井上一樹は13打数0安打に終わり、1勝4敗で敗退。宣が現役を引退。サムソンがメジャーリーグ挑戦で退団した。, 開幕して間もない4月7日の横浜戦でメルビン・バンチがノーヒットノーランを達成[11]、またシーズン通じて14勝で最多勝のタイトルを獲得した。チームは序盤は投手陣の不調、また5番レフトとして期待されたディンゴの不振で出遅れたものの、5月には10連勝を記録。しかし投打ともに前年の面影はなく、特に対巨人戦は対戦成績で9勝18敗。本拠地のナゴヤドームで2勝12敗、被本塁打が26本とホームの中日が1年で打った本塁打(32本)に迫る勢いで被弾した。9月24日の東京ドームでの対巨人最終戦では、4対0でリードの最終回に抑えのエディ・ギャラードが江藤智に同点満塁本塁打、二岡智宏にサヨナラ本塁打で4-5で敗戦、巨人の優勝決定。シーズン結果は2位。, 開幕直後に横浜の波留敏夫と種田仁、山田洋による1対2の交換トレードが成立。チームは不調でシーズン5位となり、4年ぶりのBクラスに終わる。星野仙一が健康上の理由で監督辞任[注 11]。ヘッド兼投手コーチの山田久志が監督に就任。中日OB以外から選ばれる監督としては山内一弘以来となる。前田幸長と武田一浩が退団し、揃って巨人、中村武志が金銭トレードで横浜に移籍。谷繁元信がFA移籍で加入。, シーズン途中にキューバの至宝と呼ばれたオマール・リナレスが加入した。8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成[11]。チームは対巨人戦9連敗が響き3位。福留孝介が松井秀喜の三冠王を阻み、首位打者に輝いた。, 一度は入団契約を交わしながらも突如翻意(ケビン・ミラー問題)し、ボストン・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。開幕後約1ヶ月は首位を走っていたが、谷繁元信の戦線離脱以降失速する。チーム最多勝は前年オフにオリックスからトレードで移籍してきた平井正史(12勝)で、川上憲伸[注 12]と朝倉健太と前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。シーズン途中に首脳陣との確執を起こしたギャラードが退団、横浜に移籍した。7月5日の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が球団史上3人目の通算2000本安打達成。打線は4番打者が流動的で固定出来なかった。5位に低迷していた9月9日に山田の監督休養(事実上の解任)を発表し、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行となった。佐々木代行就任後は好成績を残したが、最終的には、優勝した阪神に勝ち越しながらも14.5ゲーム差の2位で終わる。オフに落合博満の監督就任を発表。, 広島との開幕戦はFA移籍後3年間一軍登板が無かった川崎憲次郎が先発。2回5失点で降板するもその後チームは逆転勝ち。開幕3連勝するなど、4月を勝率5割で終えるが、5月には11日に一時最下位に転落。しかし中旬以降は立ち直り、26日には首位浮上。6月は巨人と首位争いとなり、20日から7連勝で首位に立つと、以降は首位を譲ることなく安定した戦いぶりを見せ、10月1日にマジック対象の3位のヤクルトが敗れたことで5年ぶり優勝達成。巨人とヤクルトに負け越したものの他の球団に大きく勝ち越した。アライバコンビが本領を発揮し、リーグトップの防御率の投手陣と、リーグ初となる同一チームから6人のゴールデン・グラブ賞受賞となったリーグ記録の45失策という堅い守備力で、リーグ最少の本塁打とリーグ5位のチーム打率と得点をカバーした。日本シリーズでは西武と対戦、2度の逆転負けもあり3勝4敗で敗退した。横浜よりタイロン・ウッズが加入し、ドラフトでは中田賢一をはじめ、即戦力となりうる新人を獲得。, 球団史上初の開幕から2試合連続のサヨナラ勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられ[15]、一時は交流戦最下位にまで低迷した上に首位を走っていたリーグでも3位にまで転落したことから「降竜戦」と揶揄された[16]。特に同年からパ・リーグへ新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスには初の3連戦(ナゴヤドーム、5月24日 - 26日)で3連敗を喫し、同球団にとって球団史上初となる3連勝を献上したほか[17]、セ・パ11球団で唯一負け越す結果となった[15]。交流戦での低迷により阪神に首位を明け渡す。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には優勝した阪神と10ゲーム差の2位に終わった。岩瀬仁紀が佐々木主浩の日本記録を塗り替えるシーズン46セーブを挙げた。, 投手陣と堅守、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速でマジックナンバー(M40)を点灯させた。9月16日の対阪神戦では山本昌が史上最年長でのノーヒットノーランを達成。シーズン終盤には阪神の猛追に遭うものの、一度も首位を明け渡さずに10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての「完全優勝」だった。川上憲伸が最多勝、最多奪三振、岩瀬仁紀が最多セーブ、福留孝介が首位打者、MVP、タイロン・ウッズが本塁打王と打点王のタイトルを獲得するなど、個の力が際立ったシーズンでもあった。しかし日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦、シリーズ全試合1番・2番を張ったアライバコンビが38打数5安打(1番・荒木が18打数2安打、2番・井端が20打数3安打)と絶不調。本塁打王と打点王のタイトルを獲得した筈のタイロン・ウッズが本塁打も打点も全く稼げず1勝4敗で敗退。オフにLGツインズから李炳圭、オリックスを自由契約となった中村紀洋が加入。アレックス・オチョアが退団。, 前年MVPの福留孝介が怪我もあってシーズン中に戦線離脱するものの、その穴を埋めるように、前年レギュラーに定着した森野将彦が打撃面でさらなる成長を見せた。投手陣では川上憲伸、朝倉健太、中田賢一を中心としたローテーション投手が活躍した常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、勝負どころでの取りこぼしが響き、最後は2位に終わる。セ・リーグでは初のプレーオフとなるクライマックスシリーズでは、第1ステージでは3位の阪神と対戦し2連勝、第2ステージはレギュラーシーズン1位の巨人と対戦し3連勝。計5連勝で球団史上初となる2年連続の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは2年連続で日本ハムと対戦し、第5戦で山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合[注 13]もあり、4勝1敗で日本ハムに前年の雪辱を果たし、53年ぶり2度目の日本一達成。アジアシリーズでは初戦の韓国代表SKワイバーンズに敗れ、予選2位で決勝戦に進むが、予選1位のSKワイバーンズに勝って優勝し、日本勢として3年連続のアジア王者となった。オフにFAで福留孝介が大リーグ・シカゴ・カブスに移籍。, シカゴ・カブスに移籍した福留の穴埋めとして埼玉西武ライオンズからFA宣言した和田一浩を獲得し、落合は「レギュラーの野手(和田、荒木、井端、李炳圭、ウッズ、中村紀洋、森野、谷繁)は決まっている」と宣言した。就任当初は1軍と2軍の枠を撤廃してまでチーム内の競争を煽った事を考えれば大きく方針を転換したが、5月14日の東京ヤクルト戦で森野が左脹脛肉離れを起こしたのをはじめ、6月には李炳圭と井端、8月の北京オリンピックでは森野と荒木と、レギュラーが次々と離脱した。平田良介以外にそれを補うべき若手も現れず、535得点はセ・リーグワースト、チームの得点圏打率とチーム打率が共に2割5分3厘と12球団ワーストで、111のダブルプレーを喫したのもセ・リーグワーストだった。また、投手面も前年活躍を見せた中田(前年14勝)、朝倉(同12勝)、川上(同12勝)が、中田は怪我と不振、朝倉は7月に右腕の血行障害を発症、川上は北京オリンピック参加での離脱およびその後も調整に時間がかかった事も重なって、3人合計で19勝どまり。山井も怪我で2試合の登板に終わった。吉見一起やが先発・中継ぎフル回転し後半戦は2年目の清水昭信が完投するなど、若手でカバーしたが、先発ローテーションが1年間固まらずチーム史上初の規定投球回到達者なしに終わった(最も多く投げたのは山本昌の133回と3分の2)。また、中継ぎの勝ちパターンも1年間固まらず、FAで和田を獲得した人的補償として岡本真也が西武に移籍し、当初の構想から修正を余儀なくされ、新セットアッパーを予定していた鈴木義広が開幕から8試合投げただけで右肘を疲労骨折してシーズン絶望となったのを皮切りに石井裕也が横浜へ移籍し、ベテランの平井が37試合で5.14の防御率と不振に陥った。44試合に登板した2年目の浅尾拓也と54試合登板の高橋聡文でカバーしたが投手陣で固まったのがクローザーの岩瀬だけだった。事実5人以上投手を起用した試合は前年は30勝16敗1分けだったのが16勝22敗5分けと投手陣を多く起用すればする程苦しい展開だったが3位となり、クライマックスシリーズの出場権は確保した。クライマックスシリーズ第1ステージは阪神との接戦を2勝1敗で制したものの、第2ステージでは拙攻と投手陣の不調(特に救援陣)もあり、巨人に1勝3敗1引分けで敗退、3年連続日本シリーズ進出はならなかった。8月4日、山本昌が史上最年長となる42歳11カ月で通算200勝を達成した[18]。オフにFAで川上憲伸が大リーグ・アトランタ・ブレーブス、中村紀洋が楽天に移籍。, ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の候補にドラゴンズから4選手が選ばれたが全員が辞退したことが話題となった。前年退団したウッズの後釜として獲得したトニ・ブランコが本塁打王と打点王の二冠に輝く活躍を見せ、前年は不振だった立浪和義も代打で好成績を残して勝利に貢献した。川上が移籍したことによって生じた先発投手陣の穴も、それぞれ16勝で最多勝と防御率1.51で最優秀防御率のタイトルを獲得した吉見やチェン・ウェインの活躍により埋まった。また川井雄太が球団新記録の開幕11連勝を達成した。シーズン序盤は下位に低迷したが、交流戦辺りから追い上げを見せ、一時は首位巨人とのゲーム差を1.5まで縮めた。しかし、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが最後まで響き、最終的には首位巨人に12ゲーム差をつけられて2位に終わった。3位のヤクルトとのクライマックスシリーズ第1ステージは、初戦を落とした後連勝し2勝1敗で制したが、巨人と対戦した第2ステージは初戦に勝利した後3連敗で1勝4敗で敗退。この年限りで立浪と井上が引退した。, チーム打率が12球団中11位(.259)だったものの、チーム防御率は12球団最高の3.29となった。特に、山井、中田、チェンが先発した7/16~19にそれぞれ完封勝利を成し遂げると、7/19は先発岩田が8回2/3まで完封ののちに浅尾-高橋が救援しての完封、7/20にはネルソン-清水-高橋-浅尾-河原-岩瀬-平井がシャットアウトした結果の延長11回サヨナラ勝ち、と連続完封勝利のプロ野球新記録を樹立(翌年、日本ハムも同じく5試合連続完封勝利のタイ記録を達成)するほどだった。また、ホームゲーム、特に本拠地のナゴヤドームでは51勝17敗1分けと圧倒的な強さを見せた。巨人戦は[注 14]ナゴヤドームでは9連勝を含む10勝2敗(クライマックスシリーズでは3勝1敗)、対阪神戦も10勝2敗と大きく勝ち越している一方で、ロードゲームでは26勝44敗2分けと差が激しかったが、セ5球団で負け越したのはヤクルト[注 15]のみであった。, 1年を通してみると、序盤には先発投手陣の不調、野手では主力の井端がシーズン中盤から故障による長期離脱などがあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられたが、浅尾や高橋ら中継ぎ投手陣の活躍、和田や森野らがチームを牽引する一方で井端に代わってレギュラーに定着した堂上直倫ら若手の台頭等もあり、後半戦から追い上げを見せた。優勝マジックを1とした10月1日、チームは試合がなかったものの、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。なお、この年はJリーグ・名古屋グランパスエイトもJ1リーグ初制覇を果たしており、プロ野球・Jリーグの双方で名古屋市に本拠地を置くチームが優勝に沸くこととなった。自己最多の37本塁打を放った和田一浩がMVPに輝いた。クライマックスシリーズでは、3位の巨人と第2ステージを戦い4勝1敗として、3年ぶりに日本シリーズ出場。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、第6戦(延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末に引き分け、16残塁は日本シリーズ史上最多)、第7戦で2試合連続の延長戦となる等接戦を演じたが、21試合連続ホールドポイントを達成、最終的には日本新記録となるシーズン47ホールドを記録し大車輪の活躍だった浅尾が名古屋に戻った第6戦以降打たれたのが祟り2勝4敗1分で敗退。, 交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど好調であったが、高橋聡文、中田賢一、山本昌、トニ・ブランコ、谷繁元信、井端弘和ら主力選手の故障が相次いだ事に加え、統一球の影響などで前年MVPの和田一浩を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。8月3日には首位ヤクルトに10ゲーム差が付き、8月10日には借金6で5位にまで転落した。しかし、リーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したエンジェルベルト・ソトの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると谷繁、ブランコ、井端の復帰や大島洋平、平田良介ら若手の成長もあり、徐々に首位東京ヤクルトとの差を縮めていく。その最中、任期満了による落合監督の同年シーズン限りでの退任と高木守道の次期監督就任が9月22日[19]、コーチ11人の退団が10月6日に発表された[20]。前後して9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝ち越し、10月6日に首位に浮上。10月18日の対横浜戦でブランコの同点本塁打で引き分けに持ち込み、142試合目にして球団史上初の2年連続セ・リーグ優勝を果たした。チーム打率(.228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初のことである。セットアッパーとして0.41という防御率を記録した浅尾拓也がセ・リーグMVPを獲得した。東京ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージは4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは、第6戦までお互いの本拠地で敗戦する展開(外弁慶シリーズ)となったが、ダイエー時代に続いて名古屋で3戦全敗した事が祟ったのとキャッチャーの谷繁が東京ヤクルトとのセ・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ第1戦の第1打席から43打席連続無安打と極度の不振で足を引っ張り、ヤフードームでの第7戦に敗れ3勝4敗。2010年も千葉ロッテに敗れているので、史上6チーム目[21]の同一チームによる2年連続日本シリーズ敗退となってしまった。オフに楽天を退団した山崎武司が10年ぶり、大リーグ・アトランタ・ブレーブスを退団した川上憲伸が4年ぶりに復帰。チェン・ウェインが大リーグ・ボルチモア・オリオールズに移籍。, 開幕戦の広島戦に勝利し、引き分けを挟んで5連勝で5月8日に首位に立つと、途中1日を除いて6月30日まで首位だった。交流戦ではセ・リーグでは巨人に次いで2位で、6月を5割の成績とすると7月1日には巨人に抜かれて2位となる。その後は巨人に離される展開で8月末には6.5ゲームとなり、最終的には巨人と10.5ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズのファーストステージでは2勝1敗でヤクルトに勝利したものの、続く巨人とのファイナルステージでは3連勝の後3連敗で敗退。シーズン途中、主砲のブランコやエースの吉見一起が故障で離脱するなど、共に規定打席、投球回に達せず、クライマックスシリーズでは吉見を欠いたのが響いた。本拠地ナゴヤドームでは途中球団新記録の14連勝など貯金20としたが、ビジターでは負け越し、特に対巨人、対ヤクルトとの関東での試合は開幕から15連敗となった。オフにブランコら助っ人3人は残留交渉が難航し、保留選手名簿から外れ、揃ってDeNAに移籍。, 6月28日に山井大介が対DeNA戦(横浜)でノーヒットノーラン達成[23]。シーズンを通じてはチームの調子は上がらず、9月25日の対広島戦(ナゴヤドーム)に0対2で敗れ、2001年以来12年ぶりのBクラスが決定、球団史上初めてクライマックスシリーズ出場を逃し[24]、最終的な順位は4位に終わった[25]。シーズン終了後2年の契約期間満了で髙木監督は退任し[26]、後任に谷繁元信が選手兼任監督として就任[27]。選手兼任監督は2006年から2007年のヤクルトの古田敦也以来、中日としては1955年の野口明以来3人目となる[28]。10月9日、前監督の落合博満が球団初のゼネラルマネージャー、中日新聞社常務の佐々木崇夫が球団社長に就任[27]。11月4日、井端弘和が自由契約で巨人[29][30]、中田賢一がFAでソフトバンクに移籍[31]。巨人からFA宣言した小笠原道大が入団[32]。, 序盤から低調だったものの、交流戦では一時首位に立つなどしたが、8月上旬に和田一浩が死球を受けて故障した上、打者陣が軒並み不振に陥り球団ワースト記録の月間20敗を記録[33][34]。9月5日、山本昌が対阪神戦(ナゴヤドーム)に先発として登板、5回無失点で勝利投手となり、浜崎真二の持つNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)とNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新した[注 16][35]。しかし、9月20日の対阪神戦(甲子園)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続シーズン負け越しが決まり、9月28日の対巨人戦(ナゴヤドーム)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続Bクラスとなった[36]。最終成績は4位に終わった。, チームは35年ぶりの開幕3連敗を喫した。4月にヤクルトと首位争いを繰り広げるも、5月に入り、徐々に後退しBクラスに転落した。6月9日の対ロッテ戦に7-6で勝利して球団通算5000勝を達成、巨人・阪神に次いで3球団目となった[37]。和田が6月11日の対ロッテ戦で史上45人目となる通算2000本安打を達成した[38]。交流戦は7勝10敗1分で2年ぶり負け越しとなり[39]、総合順位は10位に終わった。交流戦終了後、連敗がかさみ6月末時点で借金9の最下位に沈んだ。7月に入ってからもなかなか浮上のきっかけをつかむことができず、前半戦は20年ぶりの最下位に終わるも首位のDeNAとは4ゲーム差だった[40]。8月26日、DeNAに代わり5位に浮上[41]。だが、直後に最下位に逆戻りとなり8月30日の対巨人戦に敗れ、巨人に対し2リーグ制後球団史上ワーストとなる5年連続負け越しとなった。9月2日、対DeNA戦に5-6で敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出が消滅した[42]。最終成績は5位に終わり、94失策は12球団ワースト、内野陣は53失策を記録した[43]。川上、朝倉、和田など、一時代を築いたベテラン選手が来季構想外としてチームを去ることになり、谷繁選手兼任監督も現役を引退し、来シーズンから監督専任になることも決まった。そして、日本プロ野球における現役選手で最年長(50歳)の山本昌も現役を引退し、中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った[44]。オフのドラフトでは、この年の夏の甲子園胴上げ投手である小笠原慎之介を競合の末に獲得した。また、大砲の補強としてダヤン・ビシエド、阪神に移籍した高橋聡文に変わる中継ぎ左腕のジョーダン・ノルベルト、固定できなかった抑え候補のフアン・ハイメを獲得した。, 球団創設80周年を迎えた[45]。創立80周年記念CMが制作され、OBである和田が出演している[46]。チームは新加入の主砲・ビシエドの活躍で序盤はAクラスに食い込んでいたが、抑えの福谷浩司が安定せず2軍に降格するなど救援陣が固定できなかった。また、交流戦あたりからチームは低迷していき、最下位に転落した。極度の低迷を受けて8月9日に谷繁監督と共に守備コーチの佐伯貴弘が休養(事実上の途中解任)し、併せてヘッドコーチの森繁和が監督代行として指揮を執ることが発表された[47]。, 本拠地最終戦となった9月25日の阪神戦に敗れ、19年ぶりの最下位が確定した。2ケタ勝利を挙げた投手、規定投球回に到達した投手は共になしで、これは同球団にとって2リーグ制以降、初めての記録となった[48]。チーム打率・得点・本塁打リーグ最下位、安打同5位に低迷した[49]。9月27日の巨人戦に敗れ、52年ぶりの81敗を喫した[50]。21世紀に入ってからは初の最下位であり、21世紀になって最下位を経験してない球団は巨人と西武のみとなった。森監督代行が翌年から正式に監督として指揮を執ることとなった[51]。ドラフト会議では、明治大学の柳裕也を1位指名し、DeNAと競合の末中日が交渉権を獲得した[52]。また、大砲の補強としてアレックス・ゲレーロを獲得した[53]。ビシエドに続き、2年連続で大砲の補強としての獲得となった。12月20日には、落合博満GMの契約満了となる2017年1月限りでの退団を発表した[54]。, 開幕から1分けを挟み5連敗のスタートとなり[55]、引分数の違いで何度か最下位争いのヤクルトを抜き5位に上がるもののその後も最下位に低迷。開幕から20試合目でようやく先発投手(ラウル・バルデス)に勝ちが付いた[注 17][56]。6月3日のナゴヤドームでの対楽天戦で荒木雅博が史上48人目、球団生え抜きとしては立浪和義以来、史上4人目の通算2000本安打達成[57]。投手陣の不調をうけ、NPBのトレード期限当日の7月31日に日本ハムの谷元圭介を金銭トレードで獲得した[58]。8月6日の巨人戦で岩瀬がプロ野球最多記録となる950試合登板を達成[59]。9月には友利結一軍投手コーチがチーム防御率リーグ5位の4.11と低迷したことの責任を取り、コーチ登録を外れた[60]。9月9日の広島戦の敗戦で今季36度目の逆転負けを喫し、2リーグ分立後の球団ワースト記録を更新する5年連続の負け越しが決まった[61]。投手陣の不振や主力に怪我人が続出した影響で最終成績は59勝79敗5分に終わり、2年連続で60勝に届かず、順位も5位と低迷した[62]。京田陽太がリーグの新人選手としては歴代2位のシーズン149安打を達成するなど活躍し、新人王を獲得した[63]。ゲレーロは来日1年目で本塁打王を獲得するも、残留交渉が決裂し、巨人に移籍[64]。12月9日、日本ハムからFA宣言した大野奨太を獲得[65]。, 1月23日、前福岡ソフトバンクの松坂大輔が入団テストに合格、契約を結ぶ[66]。マツダスタジアムでの開幕3連戦は80年ぶりに全試合逆転負けでの3連敗を喫し[67]、出足から躓いた。4月5日の巨人戦で松坂が12年ぶりに日本で先発登板を果たし[68]、同月30日のDeNA戦で2006年9月19日のソフトバンク戦以来12年ぶり、日数にして4241日ぶりにNPBで勝利投手となった[69]。8月16日のDeNA戦で平田良介が史上68人目、73度目のサイクルヒットを達成した[70]。また、9月28日に岩瀬がプロ野球史上初となる1000試合登板を達成した[71][注 18]。森監督時代で初となる勝率5割や3位も経験したが、9月12日の阪神戦に敗れ優勝の可能性が消滅[72]。9月28日には6年連続のBクラスが確定し[73]、2年連続の5位でシーズンを終えた。チーム打率は前年リーグ5位の2割4分7厘から同2位の2割6分5厘と改善し、個人成績でもビシエドが首位打者と最多安打を獲得したほか、平田とソイロ・アルモンテが打率5傑に入るなど、打撃陣の奮闘が目立った。一方で、投手陣は柱として期待された大野、田島、又吉などがいずれも不振で、チーム防御率4.36は12球団最下位と課題を残した。荒木雅博、岩瀬仁紀、浅尾拓也、野本圭、谷哲也、工藤隆人が現役を引退。荒木の引退により、一軍本拠地がナゴヤ球場時代に在籍した選手が全員引退した。オネルキ・ガルシアは来日1年目でチーム最多の13勝を挙げるも、金銭面で球団と折り合いが付かずに退団し[74]、阪神に移籍[75]。ゲレーロに続き、2年連続での主力選手の流出、また同一リーグへの移籍を許した。シーズン終了をもって森監督が退任してシニアディレクターとして球団に残り[76]、後任に球団OBの与田剛が就任[77]。ドラフト会議では、大きな注目を集めた根尾昂(大阪桐蔭)を4球団競合の末に獲得した[78]。, 春季キャンプで松坂大輔が右肩を故障、藤嶋健人が血行障害、根尾昂が肉離れを起こすなど、怪我人が相次いだ。3・4月は首位争いをするなど善戦していたが、ソイロ・アルモンテ・.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N 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2月7日、世界的な新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)の流行を受け、同月26日には3月2日に名古屋市内で予定していた球団OBで元監督の高木守道(1月17日逝去)のお別れの会、及び2月29日のナゴヤドーム(対広島東洋カープ戦)、3月4日の岐阜長良川球場(対埼玉西武ライオンズ戦)で施行予定だった追悼試合(両試合ともオープン戦として施行)を延期することを発表した。また28日にNPBよりオープン戦の一部開催地変更を発表し、中日ドラゴンズは3月3日の岡崎市民球場と4日の岐阜長良川球場で開催予定だった対埼玉西武ライオンズ戦をいずれもナゴヤ球場に変更。3月9日にNPBより同月20日にプロ野球が開幕になっていたが延期を発表。3月20日から22日までナゴヤ球場で行われていたウエスタン・リーグの練習試合に参加していた阪神タイガースの伊藤隼太が新型コロナウイルスに感染していたことを受けて聞き取り調査した結果、中日の選手など15人が伊藤と接触していたことが3月28日に明らかになった。翌29日には選手2人を4月5日まで自宅待機に、12人の選手・スタッフについては時間をずらして練習、仕事を行わせると発表。また4月3日から5日まで行われる予定だった広島二軍との練習試合を中止とした5月27日NPBは開幕前に行う無観客の練習試合の日程を発表、新型コロナウイルス感染防止のため、名古屋以東の8球団と関西以西の4球団の2グループに分かれて開催地を集中させて移動を抑えた。また、この年は120試合に短縮となり、セ・パ交流戦、オールスターゲーム、およびセ・リーグのクライマックスシリーズは中止となった。, 1月26日ライデル・マルティネス及び育成登録のアリエル・マルティネスとの契約更新、及び育成選手としてキューバ出身のヤリエル・ロドリゲスと契約したことを発表。1998年から2001年まで在籍した李鍾範を研修コーチとして招聘したことを発表。背番号は79で二軍に帯同する。3月26日に育成契約のモイセ・シエラを支配下選手として契約したことを発表。背番号は45。, 6月19日に延期となっていた公式戦を無観客で神宮球場で開幕。27年ぶりに開幕18安打という記録を残して2016年以来の白星発進をし[90]、21日には8年振りの開幕カード勝ち越しを飾った[91]。その後は敗戦が多く、7月14日には最下位に転落[92]。8月6日には負け越しが9にまで膨らんだ[93]。しかし8月16日に最下位を脱すると[94]、8月19日には3位に浮上する[95]。その後は4位に落ちるが、10月3日に再び3位に上がると[96]、10月11日から7連勝を達成[97]、10月23日にはこの年最大となる貯金8となった[98]。11月4日に行われた対DeNA戦に勝利して8年振りとなるシーズン勝ち越しを決め[99]、翌5日にも勝利して8年振りとなるAクラス入りを果たした[100]。最終的には3位でシーズンを終えた[101]。, 開幕投手を務めた大野雄大は6戦して未勝利だったが、7戦目の7月31日に完投で初勝利を挙げると[102]、その後球団記録に並ぶ5試合連続完投勝利を達成した[103]。また、10月22日の対DeNA戦において連続イニング無失点を45として、1956年の大矢根博臣(40回1/3)を抜き球団新記録を達成した[104]。最終的には6完封を含む10完投で11勝6敗の活躍を見せ[105]、最多奪三振と2年連続での最優秀防御率のタイトルを獲得[106]。沢村賞も受賞した[107]。福敬登、祖父江大輔、ライデル・マルティネスらのリリーフ陣も安定した活躍を見せて6回終了時点でリードしていた試合で37連勝を果たし[108]、福と祖父江は共に最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した[109]。先発に転向した福谷浩司も8勝と復活を果たした[110]。打撃陣では、大島洋平が2年連続となる最多安打を獲得した[111]。この年で吉見一起が現役を引退した[112]。10月26日、シーズン中に開催された異例のドラフト会議では高校No.1投手や世代No.1とも名高い地元愛知出身の高橋宏斗(中京大中京)を一位指名し、見事一本釣りに成功し、交渉権を獲得した[113]。これで3年連続でのドラゴンズジュニア出身選手の交渉権獲得となった。, ※2007年から採用されたクライマックスシリーズでは2012年まで6年連続でファイナル(2nd)ステージ進出を果たしていた。, 2008年以降は応援団の中でも主導的役割を担っていた竜心会、白龍會が暴力団との関係を疑われたことを理由にNPBが最終決定権を持つプロ野球暴力団等排除対策協議会より、全国竜心連合は"特別応援不許可"、名古屋白龍會は"販売拒否"という処分を受けた[120]。2008年に処分内容を不服として名古屋地裁に提訴し、2010年1月に応援不許可については退けられたが、入場禁止を無効とする判決が言い渡された[121]。しかし、2011年2月17日に名古屋高裁で原告の訴えを全て退け、入場禁止を認める判決が言い渡された[122]。その後、最高裁に上告したが、2013年2月15日までに上告を退けられ、応援団側の敗訴が決定した[123]。, 2014年シーズン以降、鳴り物応援が許可されるのは球団公認の応援団のみとなった[124][125][126]。新たに新設された私設応援団「中日ドラゴンズ応援団(通称:新応援団)」[126]の主導で再開した応援(2014年シーズン終了時点)では著作権の都合上、以前の応援団が作詞作曲した曲(すなわち「燃えよドラゴンズ!」「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」以外)は使用できなくなり、ほとんどの応援歌が変更されている。なお、全国中日ドラゴンズ私設応援団連合(または旧連合)のFacebookによると、新応援団に元竜心のメンバーが加入したために、連合が所有する既存曲の著作権を全て新応援団に無償譲渡する方針であると2014年10月始めのエントリーで発表したが、これ以降の新しいエントリーがないため、現時点で正式譲渡されたのかは不明である。新応援団公式Twitterアカウント上で春季キャンプイン当日に発表された内容では、新曲情報と共に昨季活動の4試合で歌詞を変えて継続使用した「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」の2曲を2015年以降使用しないという旨が併せて記載された。これによって、チャンスのテーマ・汎用テーマも新応援団が作成した新曲だけとなり、旧連合が作成した楽曲は姿を消すこととなった。名古屋白龍會がリードを担当していた、8回攻撃前に演奏された「ドラゴンズマーチのテーマ」も2007年までに事実上の廃止となり、今は公式球団歌「昇竜 - いざゆけ ドラゴンズ」をショートVerとして独自にアレンジした「我らのドラゴンズ」を同じ8回攻撃前に演奏している。, 2019年7月1日、突如球団公設の応援団がTwitter上にて「不適切なフレーズがあると球団側から指摘を受けた」としてチャンステーマ、サウスポーの当面の使用自粛を発表した[127]。その後球団側が「『お前』という言葉を子供たちが歌うのは、教育上良くないのではないか」として自粛に至った経緯も含めて説明した[128]。同曲は高校野球の応援歌などでも頻繁に使用され、チーム内外問わず人気の一曲であったが、この件を受けてネット上などで物議を醸し、更に各種メディアや各界著名人も取り上げるなど大きな反響を呼んだ[129]。, ジェット風船の使用については、それが認められていたナゴヤ球場から空調設備への影響などでそれが禁止のナゴヤドームに本拠地を移して以降、ビジターや地方球場のみ使用している(ジェット風船の色はカラフル)。2012年以降のナゴヤドームでのジェット風船使用解禁試合(高木監督時代は当時着用していた背番号に因んで、8月8日あるいはその近くのナゴヤドーム開催試合で企画された「守道デー」の日に限って行われた)では、中日ファンはプレゼントデーの一環として渡される風船を飛ばしている。球団によれば(環境に配慮したもの)で、来場者への配布用に制作するジェット風船以外の物の使用は禁止とされている。尚、高木氏の退任後も、年間の数試合を「昇竜デー」と銘打ち、当該試合を中心とした10試合前後でジェット風船を飛ばす日を設けている。, 商標としては、ロゴ3を1983年2月4日に出願し、1986年2月28日に登録された。登録番号:第1843922号。, ロゴ2は1987年から96年の帽子に使用した同じ書体の「D」マークとともに、1990年4月10日に出願し、1993年5月31日に登録された。登録番号:第2543391号。ロゴ2単体でも1991年8月26日に出願し、1994年1月31日に登録された。登録番号:2618847号。, 1987年 - 1996年に使われたドラ坊や(1981年に登場したマスコットキャラクター)ペットマークも1993年6月29日出願し、1997年10月9日登録された。登録番号:4065874号。, ロゴ4は2003年12月22日出願、2004年7月9日登録。登録番号:第4786013号。, また、「ドラ坊や」登場前は「東洋龍」に中日新聞マークを添えたものをペットマークに使用。当時のジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた(少年用のレプリカキャップには玉を口にくわえたもの、手に持ったものなど派生版が見られた)。, 2009年まで在籍した立浪和義の背番号「3」も一部有志が永久欠番にしようとして署名活動も行われたものの、実現しなかった[158]。2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった[159]。背番号3は2011年から高校の後輩である吉川大幾が、2015年からは高橋周平が着用している。, 1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号20も永久欠番になっていない。これは、中日で服部と西沢を欠番にするのは両者を辞めさせるときの「妥協点」であり、服部や西沢と違い杉下は当時監督としてチームに残る予定だったので、「保留」にしてもらったという、杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている[160]。, また、2015年限りで現役引退した山本昌が入団から着用した34番も永久欠番制定については固辞したとサンケイスポーツから報道されており[161]、2016年からは新人で同じく左腕の福敬登が継承したが、故障の治療のため育成選手契約となった2018年は一時的に空き番とし(234番に変更)[162]、シーズン途中の支配下登録復帰後に改めて着用した[163][164]。, 球団マスコットは以下の3体。詳しいことはそれぞれの記事を参照。1996年までは、竜の顔をモチーフにしたヘルメットをかぶり、Dのマークが入ったバットを持った少年(通称:ドラ坊や)をペットマークに使用。, 中日ドラゴンズのオフィシャル・チアリーディングチームの名称。球団の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移転した1997年にシャオロンのデビューとともに結成された。詳しくはチア・ドラゴンズを参照。, 現在までに3代目の球団歌が存在するが、後述の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の方が幅広く浸透している。, ナゴヤドームの他に下記のように毎年数試合の地方遠征を行う。下記地域はいずれも中日新聞とその支社や支局が発行する北陸中日新聞と日刊県民福井の販売エリアである。なお、豊橋・浜松、岐阜、福井・金沢・富山と球場の場所が比較的近いのを考慮して日程が編成されていることが多い。特に富山・金沢・福井の試合は北陸シリーズとよく呼ばれる。, なお、2014年まで毎年組まれていた「北陸シリーズ」2試合は、2015年は組まれず、それ以降2016年・2018年と隔年で開催されたが、2020年は組まれなかった。また、2007年から2010年までの4年間は日本生命セ・パ交流戦の中に組まれており、2011年は5年ぶりにセ・リーグ公式戦(対東京ヤクルトスワローズ戦)が組まれることとなっていた(5月10日・石川、5月11日・富山)が、いずれも中止(富山にいたっては2年連続中止。北陸での代替なし)となった。北陸シリーズが全部中止になったのは近年では異例だった。, ファームの場合も毎年地方遠征を行うほか、ナゴヤドームで試合を行うことがある。ただし、開始時刻が通常より早まるほか、内野エリアのみの開放のため売店も一部のみの営業、バックスクリーンの映像演出がないなど、一軍と比べると様式が違う部分が多い。また、通常のナゴヤ球場の場合のようなスタイル(ドラゴンズ公式ファンクラブ会員なら、チケットを買わずに会員証を見せるだけで入場できるシステム。ただし人数制限あり)ではなく、一軍公式戦の時より安価に設定されているものの、チケットを買う必要がある。, なお、東海地方でも収容人員の小さい球場しか無い三重県では1951年の中日球場全焼火災の影響で同年9月22日に松阪市営球場で一軍公式戦を行って以来[167]、公式戦の開催実績はない(オープン戦や二軍の試合では四日市市営霞ヶ浦第一野球場、津球場を使うことはある)。また、中日新聞の販売エリアの長野県[注 28]、滋賀県[注 29]、和歌山県でも現在のところ一軍・二軍とも試合は行われていない。, 東京新聞・東京中日スポーツを発行する関東地区はフランチャイズの関係もあり主管試合を行った事例は1952年以後では開催したことがないが、それ導入前に後楽園球場などで開催したり、中日球場の全焼火災により1951年の一部の試合を茅ヶ崎市営球場、川崎球場で開催した事例がある。, オープン戦では、上記球場以外に東海4県では小牧市民球場、岡崎市民球場、一宮球場、蒲郡球場、豊田市運動公園野球場、大垣市営球場(北公園球場)、その他キャンプ地の北谷公園野球場でも開催する。過去には串間市営球場、石川市営球場(現・うるま市石川球場)、具志川市営球場(現・うるま市具志川球場)でも過去に試合が行われたことがある。北陸は積雪や気候の問題上オープン戦はほとんど行わない。これらも毎年多くの観客が来場したりしているほか、東海テレビ・CBCテレビ(試合により三重テレビ、テレビ愛知も)で中継されている。東海地方の地方球場での主催試合も中継されている(スカパー!向けも含む)が、2009年3月11日から2014年3月6日(共に小牧市民球場の中日対西武戦)までの約5年間、中継を実施しなかった時期があった[注 30]。北谷公園野球場の試合は中継されている。, 在名民放テレビ局に関しては基本的に月刊ドラゴンズ内『ドラ応援番組裏話』を基準とするほか、初回放送分のみ記載する。掲載順はテレビ・ラジオともに放送日(月曜日始点)。, 応援放送以外でもドラゴンズの話題を取り上げるコーナーやスポット番組があり、メ〜テレは『ドデスカ!』のコーナー「ドデスポ!」で、シーズン中の場合はNHK名古屋放送局では『ほっとイブニング』と『ニュース845東海』で、東海テレビでは『東海テレニュース』後に試合経過や結果を放送している(「ドラゴンズtoday」)。NHKの場合はスコアボードや継投(試合終了時は勝利・セーブ・敗戦投手)、ホームランを放った選手といった情報(「いつでもドラゴンズ速報」)が画面上に表示される(NHKのスポーツニュースで表示されているものと同じ)。東海テレビの場合はスタジオのセット(ブルーバック)以外は手作りのスコアボードがあるのみ。, 中日ドラゴンズ主催試合の放映権並びに放送権があるのはNHKと、中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局(CBCラジオ、東海ラジオ)・テレビ4局(CBCテレビ、東海テレビ、テレビ愛知、三重テレビ放送)のみで、特にテレビ中継による放映権取得分の約8割はCBCテレビと東海テレビに集中している(両局とも中継の数は半々に振り分けているが、概ね月・火・木・金・土は東海テレビ、水・日はCBCテレビに当てられる場合が多い)。, 同じ中日資本の三重テレビとテレビ愛知も開局当初はホームゲームの中継が出来なかった。しかし三重テレビでは編成の都合上、東海テレビが放映権を得ながら同局で放送できない(主に、キー局のフジテレビが長時間特番を全国ネットで放送する場合)試合を筆頭株主でもある三重テレビで放送することにより中継開始、また、テレビ愛知でもナゴヤドーム主催試合を2001年よりスタートし(対ヤクルト戦)現在は年数試合が放送されており、2007年には53年ぶりの日本一を達成した日本シリーズ第5戦(制作はナゴヤドームの巨人戦を含めてキー局のテレビ東京)を民放初の完全中継を行った(日本シリーズでテレビ東京系列が放映権を得るパターンは、パシフィック・リーグのうち比較的多くの試合を放送する千葉ロッテマリーンズ(テレビ東京)、北海道日本ハムファイターズ(テレビ北海道)、福岡ソフトバンクホークス(TVQ九州放送)が進出した場合に推薦される機会が多く、セ・リーグ側で推薦された実績があるのは現段階で中日のみである)。, 一方で、非中日新聞社系列のメ〜テレと中京テレビには中日ドラゴンズ主催試合の放映権はなく(日本野球機構〈NPB〉主催の日本シリーズについても同様)、中日ドラゴンズの本拠地開催試合を中継できない(中日のビジターゲームについてはこの限りではなく、メ~テレは土日昼間のローカルセールス枠を利用し、朝日放送テレビ制作の阪神戦・広島ホームテレビ制作の広島戦などやセ・パ交流戦のビジターゲーム(現地の系列局での放送がない場合、球団公式映像の利用で制作)は放送し、中京テレビは原則として、読売ジャイアンツ主催試合を日本テレビ系列全国ネットで放送する場合のみだが、2016年は在広では広島テレビが放映権を獲得した試合で、中京テレビの吉田太一アナウンサー及び解説者の井上一樹などがマツダスタジアムに出張する形で、広島×中日を中京広域圏向けに1試合のみだが初めて中継した)[168]が、かつては、巨人戦以外の主要ビジターゲームを三重テレビ放送と岐阜放送が生中継したのち、メ〜テレでそれを編集・再構成して自社スタジオでカラ出張放送した『ビデオナイター・ゴーゴードラゴンズ』の事例もある)。過去には、メ〜テレではネット受けのみならずマツダスタジアム・甲子園球場・神宮球場・QVCマリンフィールド・札幌ドームでのゲームを自社スタッフの実況で中継したことがある。, ただし、読売新聞社または毎日新聞社とNPBの主催で開催される日米野球については、メ〜テレと中京テレビのキー局である日本テレビ[注 32]・NET→テレビ朝日[注 33]がナゴヤ球場開催分を中継することを中日新聞・中日球団が認め、読売新聞主催時には巨人・中日連合チームが編成されることもあり、編成によってはメ〜テレや中京テレビのローカル放送となることもあった。また、系列整理より前の1972年2月26日には、中京テレビの設立に中部日本放送・東海テレビ・中日新聞も関与した経緯があることから、特例としてNETが中京テレビとのネットで中日主催の大洋(現DeNA)とのオープン戦(浜松球場)を中継しているが、当時NETや中京テレビと系列関係にあった毎日放送(MBS)[注 34]の制作による『土曜ワイドスポーツ』として放送され、毎日放送の解説者とアナウンサーによる実況だった。なお当時静岡県にはNET系列局がフルネット・クロスネット局とも所在していなかった。さらに中日主管としてナゴヤドームで開催されたマイナビオールスターゲーム2017第1戦は放映権がNPB主導になったため、メ〜テレ制作協力の下テレビ朝日系列にて放送された。, また、岐阜新聞社資本の岐阜放送(岐阜テレビ・岐阜ラジオ)にも中日ドラゴンズ主催試合の放映権はない。過去に岐阜テレビではCBCテレビと提携し、CBCテレビで中継できなかったホームゲームを中継したり、静岡県開催で例外的にテレビ神奈川(独立局)[注 35]が制作した中日のホームゲームをネット受けしたことがあったが2019年現在は撤退し、独立局が中継する中日のビジターゲームを中心に中継する程度に留まっている。ただし、NPB主催の日本シリーズでは、テレビ愛知が中継する日に限り、中日のホームゲームを中継する場合がある。例として、2007年の日本シリーズ第5戦は、日本シリーズの主催が中日では無くNPBで、またテレビ東京制作であるため独立UHF局にも中継協力要請があり、岐阜テレビでも中継が行われた。岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれていた[注 36]が、中日新聞の資本参加後は「中日」の呼称を使用する例がある。なお、2010年代以降は中日新聞も岐阜放送に出資しているため、テレビの放映権についての変化はない一方、ラジオでは2018年に対巨人戦の一部が放送された。, 1998年3月29日にはナゴヤドームでオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)主催の対中日のオープン戦が開催された。この場合は中日主催でなかったため、権利上は当然ながらメ〜テレ/朝日放送・中京テレビ/読売テレビでも中継可能だったが、テレビ愛知制作テレビ東京系列ネットで放送。, 金沢、富山、福井といった北陸3県での主催ゲームは、1990年代初期までは東海テレビが担当していたため、勧進元でもある現地のフジテレビ系列局が積極的に制作協力し、年度によっては実況アナウンサーを現地局側が担当したり、技術面や制作著作そのものを委譲されるなどして現地局でも放送されることもあったが、1990年代中期以降はCBCテレビの担当となり、一部年度で散発的にTBSテレビ主導の制作でCBCテレビ・現地系列局との3局ネットとなった場合を除き、地元のTBS系列局での中継や、制作協力への関与がない[注 37][注 38]。ラジオも決まって巨人戦を中心とした全国中継カードを放送することが多い[注 39]。ただし、浜松球場での主催ゲームは静岡放送が独自でラジオ中継を行うことがある。, セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、まずは2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。後にヘルメットにもスポンサーが掲載できるようになった。, 1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回、名古屋軍が追いついて以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言されて試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった[172]。, 当時の後楽園球場は延長15回までスコアが記入できていたが、当然それでも間に合わなかったため、前2試合分のスコア(10回まで)が記載できる下段のボードをも使わざるを得ない状態となった[173]。, ただし3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日にポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている[172](史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日のブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。, 戦前・並びに戦後初期は変則ダブルヘッダー(異なる組み合わせの試合を同じ会場で施行する)のケースが頻繁に行われたが、1952年にプロ野球地域保護権(フランチャイズ=ホームタウン)が制定されてからも、1960年代半ばまでは球場不足により、特に関東の会場でこのようなケースが頻発していた。, それ以降変則ダブルは皆無に等しくなるが、1971年10月11日に川崎球場で行われたダブルヘッダーは中日がビジター(アウェー)で、ホームチームが入れ替わるというものだった。というのも日本シリーズ・巨人対阪急の開催が10月12日から行われるのに併せて、それまでにペナントレースを全て終わらせたい意向があったためで、この日の第1試合はヤクルトと、第2試合は本来のホームタウンが川崎の大洋と対戦した。ヤクルトは当時明治神宮野球場が大学野球(東京六大学選手権・東都大学選手権1部リーグ)とデーゲーム日程が重なる場合は大学野球を優先したため、やむをえない事情として川崎球場や横浜公園平和野球場等を借りて試合をしていたため、こういう変則日程が生じた。, 1974年10月14日、この日ドラゴンズは、20年ぶりのリーグ優勝を祝して名古屋市内を祝賀パレードすることになっていた。ところが、この前日の10月13日に予定されていた読売ジャイアンツ・長嶋茂雄引退試合が雨により中止となったため、この試合が優勝パレードの予定されていた14日にダブルヘッダーとして組み込まれることとなった。, 優勝に貢献した星野仙一・高木守道ら主力選手もこの長嶋引退に華を添えようとしたが、地元名古屋市民は20年ぶりのリーグ優勝に興奮気味で、優勝パレードに主力選手が出場しなかったら納得してもらえないとして球団は優勝パレードを強行。そこで、主力選手と与那嶺要監督は優勝パレードに出席させることとして、残った若手選手は近藤貞雄ヘッドコーチを代行監督とする形で東京へ残し試合を行った。高木ら選手は長嶋に対して「申し訳ありません」と涙ながらに謝罪したというエピソードがある。[174], 2003年1月から2月にかけて中日が新たに獲得したケビン・ミラーをめぐってボストン・レッドソックスとの間でひと騒動が起きた。結局、ミラーは中日入りを拒否してレッドソックスに入団した。, 近年、ドミニカ共和国で行われているウィンターリーグに育成を目的として若手選手を派遣し、同行したコーチやスタッフが外国人選手の調査を行っている。2004年オフから獲得した外国人選手はほとんどがドミニカ共和国の出身(2011年に獲得したエンジェルベルト・ソトはベネズエラの出身)である。, ドミニカ出身選手が増えている背景には、かつて所属していた選手に対する契約違反があったとされ、アメリカの市場からは締め出されてしまったからとされていたが、森繁和が著書にて2004年オフにて当時監督の落合との会話から金銭的な面からドミニカにシフトチェンジしたことを記している。しかし、ドミニカから選手を獲得することにより、安く優秀な選手が中日に入団することが増え、独自のルートが開拓されたといえる[175]。現在は西武や巨人でプレーしたドミンゴ・マルティネスがドミニカ担当スカウトを務めている。また、2011年まではヘッドコーチだった森繁和がウインターリーグに派遣される選手とともにドミニカに出向き、リーグで活躍する選手の視察やスカウトを行っていて、2013年オフに復帰した際に再開している。, この、中日の「ドミニカ共和国とのつながり」の象徴的なことの一つとして、「3D」が挙げられる[176][177][注 42]。ユニットとして機能したのは、2015年シーズンの1シーズンのみにとどまったが、特にシーズン前半は打線の活性化に大きな貢献を果たした。, 2010年10月4日、落合監督は選手全員の出場選手登録を抹消した[178]。この措置は次の理由によるものとしている。, 2010年度の中日の公式戦の全日程が10月2日に終了したこと。クライマックスシリーズ(CS)での中日の出場が、ファイナルステージが開催される10月20日からであり、それまでに2週間以上空くこと。その間に怪我をしてから登録を抹消した場合、再登録できるまで10日かかり、最悪の場合、ファイナルステージに間に合わなくなってしまうこと。また、その間に戦力の再検討を一から行っていくこと。, この件がきっかけとなり2011年に両リーグのルールが改正され、シーズン終了からクライマックスシリーズ開始時までに10日以上の間がある場合は、当該球団の出場登録を自動的に抹消するようになった。CS開催時に登録された際には、その間に抹消された期間も一軍登録期間としてカウントされることとなった。また、改正された前年の2010年の中日のCS出場登録選手も遡って登録期間にカウントされた。, FNN/​FNS​(中日新聞テレビ日曜夕刊FNN/FNN北陸中日新聞日曜夕刊 /​ スーパーニュースWEEKEND/​みんなのニュース Weekend/​プライムニュース イブニング), この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。, この年の後楽園での対巨人戦成績は0勝12敗1分、翌年も開幕から7連敗で9月13日の試合で6-5で勝利し、ようやく連敗を19で止めた(この当時のセ・リーグの同一球場における連敗記録は20)。, 髙木はこの試合で、審判へ判定に対する抗議をして退場処分を受けている。またこの日、オーナーの, その他に自身の先発勝利投手と、浜崎の登板、奪三振、先発出場、打席のそれぞれ史上最年長記録も更新。, 同スタイルのユニフォームには、背番号の上にアルファベット(ローマ字)の選手名入りのバージョンもあるが、1974年当時のものは選手名が入っていないため(1976年まで使用)、背ネームは入れていない。ただし背番号のサイズが当時のものより小さい。, ホーム用の右腰部のスズキのスポンサーロゴは引き継がれたので、通常は兼用ではないが、ホーム用ユニフォームでもスポンサーロゴの掲示が認められないオールスターゲームに限っては兼用が可能である。, 同年6月16日にナゴヤドームで振替開催。なお、この振替試合では、中日主催としてはナゴヤドーム開場以来最低の観客数(6,947人)を記録した。シーズン券が使えなかったことと、開催日などの周知が徹底されていなかったことが主な理由。, メ〜テレ開局前は、CBCテレビと東海テレビのいずれかが日本テレビ系列にも中日主催ゲームを配信していた。, 1973年3月まではメ〜テレ・中京テレビ並列で両系列に参加(正式にはテレビ朝日系列には両方が、NNNには名古屋テレビのみが加盟)し、同年4月からメ〜テレはNET→テレビ朝日系に、中京テレビは日本テレビ系に一本化した。, 岐阜新聞・岐阜放送とも新聞紙面やwebサイト上の中日ドラゴンズ関連記事では「中日」を使用している。, その一方で、ビジター側の系列局が同時ネットまたは独自の実況で放送することがある。2016年7月6日の対広島戦(金沢)は中国放送が別制作を実施したが、同日登板した, 試合開催は引き続きフジテレビ系列局が勧進元となっている。石川県・富山県のTBS系列局は、中日新聞との資本関係はあるものの、それ以上に全国紙各紙や中日新聞と競合する地元県紙(, 過去にラジオ日本が予備カードを設定していた時代は、予備から昇格した場合に限りCBCラジオ発ラジオ日本向け裏送り中継の中日主管試合の岐阜ラジオへのネットが行われた。また中日が関与しないナゴヤ球場・ナゴヤドームで開催のパ・リーグのカードや、放送権が広島球団側にある長良川球場での広島主催の中日戦では、CBCラジオ発の裏送り分が岐阜ラジオに本番カードとしてネットされたことがある。また後者の場合はラジオ日本が直接岐阜に乗り込み、岐阜ラジオの技術協力で放送されることがあった。2016年からラジオ日本とTBSラジオ・JRNの提携関係が本格的に再開されることになったが、岐阜放送では原則として巨人戦のみとするも、巨人戦を含む中日主催試合、並びに雨天中止の予備カードや、基から中日戦の開催がないか、JRNに放送権が与えられていないヤクルト主管の中日戦開催日においてのCBCラジオの本番カードと重複する場合は、サービスエリア重複(双方とも東海3県のほぼ全域と滋賀・静岡・富山・長野・和歌山・奈良などの周辺県一部で聴取可能)による干渉を防ぐ目的で、岐阜放送での放送が行われない試合もあった, 中日ドラゴンズにおける、ドミニカ共和国出身の助っ人外国人選手である、ルナ、エルナンデス、ナニータの3人を総称する際の愛称。, 台風が上陸した9月26日以降、中日のホームゲームは8試合残っていたが、10月3日(国鉄戦)と10月6日(大阪戦)は中日球場で行い、巨人戦3試合、広島戦2試合、国鉄戦1試合はビジターゲームに変更された。, 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊夏祭号)、ベースボール・マガジン社、88-89頁、2019年, 『中日新聞』2005年10月3日朝刊第一運動スポーツ面29頁「失速 中日連覇への落とし穴(下) 相対的強者 交流戦でもろさ露呈」(中日新聞社), 1951年から1953年と1965年、1966年のいずれも南海、1956年、1959年と1976年、1977年のいずれも巨人、1967年、1969年と1971年、1972年の阪急、1979年、1980年の近鉄、1993年、1994年の西武, それ以前から、年度により解説者・リポーター・製作スタッフを派遣の上で共同制作・同時ネットした例はあった。また1980年代には甲子園球場の対阪神戦で自社の実況に差し替えたり、オープン戦の日本ハム主催中日戦を, 2013年から2015年までのナイター開催時はトップ中継のみ別制作となり(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)、リレー中継のみ地上波中継と同じ出演者が担当する形式だったが、2016年以降のデーゲーム開催時は原則としてリレー中継のみ実施し、CBCテレビのみ16時以降も中継するが、地上波同時放送とせず、TBSチャンネル1との同時放送となる。, 巨人とは大違い オレ竜ドミニカ優良助っ人獲得の楽屋裏 - スポーツ - ZAKZAK, CBCドラゴンズナイター/CBCドラゴンズスペシャル(月曜ナイター)/CBCドラゴンズサタデー(土曜デーゲーム)/CBCドラゴンズサンデー(日曜デーゲーム), 東海ラジオ ガッツナイター/東海ラジオ ガッツナイタースペシャル(土曜・日曜デーゲーム)/東海ラジオ ドラゴンズスペシャル(平日デーゲーム・月曜ナイター), http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/07/kiji/K20111007001773410.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/06/28/kiji/K20130628006108970.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/25/kiji/K20130925006687080.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/11/26/kiji/K20131126007087930.html, http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/10363.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/31/kiji/K20140831008841530.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/31/kiji/K20140831008846550.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/05/kiji/K20140905008878080.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140923-1371750.html, http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2015/06/17/2000_3/, http://www.asahi.com/articles/ASH6G427VH6GUTQP003.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1528433.html, http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20150902-OHT1T50003.html, 【中日】開幕から20戦目で先発投手初勝利…バルデスに森監督が膝蹴りで祝福、スポーツ報知、閲覧2017年5月1日, 松坂、ウイニングボールは「特別なものに」12年ぶり勝利「顔を覚えてもらえるように頑張りたい」, https://www.sanspo.com/baseball/news/20181016/dra18101605000001-n1.html, 前中日の左腕ロドリゲスがレンジャーズと2年6億円契約 大リーグでもセットアッパー チーム復活のキーマンに, 東邦・石川は中日 根尾に続き与田監督また引いた ソフトバンク、オリックスと3球団競合, 中日27年ぶり開幕戦18安打 神宮の鬼・堂上直倫が代打で決勝犠飛「みんながつないでくれた場面、なんとか点を入れたかった」, 中日・梅津快投8年ぶり開幕カード勝ち越し呼ぶ「今年のドラゴンズは違うぞというところをしっかり見せたい」, ハマスタ今季6戦全敗の屈辱をバネに… きょうからナゴヤD巨人3連戦 「一つのきっかけから変われる」, 大野雄3試合連続の完投&球団初2桁奪三振「味方が4点取ってくれ長い回を投げたかった」, 中日、快進撃の3位浮上! 4本塁打・2桁得点・4連勝の今季初物尽くし…立役者は2発4打点の主砲ビシエド, 中日が3カードぶり勝ち越しで3位浮上!!

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